注意:以下の文章は、すべてネタバレを前提としているため、未視聴の方は注意してください。また、個人的には、まどマギ前後編と新編やその関連作品(あるいは二次創作)の内容も知っている人のほうが、楽しめるコンテンツになっていると思います。

魔法少女まどか☆マギカ 考察

私は、正直アニメをあまり見ない。

昔は見ていたが、いまはほとんど見ない。

ただ、それでもたまに見ているというか、人生のある意味一部となっているのが、まどマギだ。

 

なので、その記憶なり記録なりを残しておきたいと思う。

※ちなみに、私のまどマギグッズ一覧はこちら

目次

・アニメ版「マギアレコード」について思ったこと

・まどマギ最新作「ワルプルギスの廻天」について

・超主観的キャラ紹介

・考察の前にお気に入りの曲

・お気に入りのシーン

・考察の直前にまどマギのノベルゲーム(二次創作)

・考察:ほむらとまどか

・考察:悪魔ほむら

・考察:「成熟」という檻

・考察:叛逆の物語における「記憶」

・考察:まどマギ論における「自然」と「作為」

・参考にしたもの 兼 おすすめ

・あとがきなど

アニメ版「マギアレコード」について思ったこと

いちおう、アニメ版1期、2期、3期は視聴した(ニコニコ生放送など)。

また、このアニメ版マギアレコードに関して主にネガティブな意見を少しは読んだ。

他方で、一部ではまどマギとマギレコは違う路線のアニメである、などという擁護論にも接した。

 

まず、思ったのは、よいアニメというのは、脚本がしっかりしているアニメだということだ。

いかに作画や音響などがよかったとしても、内容に骨がないと二度三度見ようとか、BDまで買いたいなどというようなリピーターになることはないのだな、と思った。

 

もちろん、これには異論があるだろう。

ストーリーではなく、キャラクター自体が好きだから、雰囲気やノリが好きだから、という人もいるだろう。

 

だから、「脚本」に一番のウェイトを置くのは「好み」の問題と、多元的な現代では片づけられるかもしれない。しかし、それはとても悲しいことである。人間の最後の防波堤といえる「感情」をいかに揺さぶられるか、いかに登場人物に共感あるいは反発できるか、ということが「このアニメをもう一度見たい」という行動につながるのではなかろうか。

 

たかがアニメといってはならない。むしろ一見カジュアルにみえるアニメであるからこそ、そこには最低限の筋のとおったシナリオが必要であり、私たち現実世界に生きる人間から見て理解できる思考をもった登場人物がいなければならない。舞台設定はマジカルであっても、そこに生きる人間にはリアリティが必要だと思う。

 

※ある意味、私たちとは別の世界、別の次元で生きている登場人物たちの声が響いてくるためには、何かしらの共通点がなければならない。それは、通常、善と悪、強さと弱さ、慈愛と猜疑などの対になる感情である。

 

※アニメは反芻される古典を目指すべきであって、消費される大量生産品になってはいけないと思っている。

 

アニメ版マギアレコードをみて思ったのは、登場人物の言葉や人物描写が断片的で、一発屋的であるということだ。登場人物の掘り下げや、感情移入できる日常風景の描写が足りないまま、重大な場面で意味深なセリフを言ったとしても、そのセリフと人物が浮いてしまい、おいて行かれてしまう。

 

考えてみれば、まどマギ原作に関しては登場人物の描写は「平凡であること」に徹していた。まどか本人だけでなく、さやかも凡人であることがいやというほど強調されていたし、マミや杏子もあくまで自分のために戦うことを強調することでシンプルさを保っている。また、まどかとほむらは最終的には非常に大きな奇跡を達成したが、物語としては「ほむらのまどかに対する愛」という私的な問題に収斂させている。

 

他方でマギアレコードは、この魔法少女の宿命という大きな問題を、私的な世界に圧縮していくという作業がうまくいっていないように見える。演出の派手さは確かに見事だが、そういうものは「一回見ればおなか一杯」であり、噛めば噛むほど味が出るような深みが薄い。

 

その要因はいろいろあるだろうが、第一は日常描写という一見つまらないように見える作業よりも、派手な非日常部分を(安易に?)選んだことにあるだろう。

 

生活感のなさ、それがマギアレコードアニメ版でかけていたことだろう。

まどマギ最新作「ワルプルギスの廻天」について

魔法少女まどか☆マギカ10周年記念の場で、あの叛逆の物語の続編が発表された。

その名も「ワルプルギスの廻天」。

 

タイトルのみの発表で具体的な内容に触れるものは、いまだ発表されていないが、現時点で私ができる予想(願望)をしてみたいと思う。

 

まず、最も重要なのは、伏線の回収である。

叛逆の物語で提示された伏線は、(私なりに解釈すれば)「(ほむらの)愛」と「(まどかの)正義」の間の矛盾の停滞状態である。

 

ほむらは、まどか(たち)の記憶を奪い、世界を自分の思い通りに改変したことで、一見問題が存在しないように見える結末を作り出した。

 

しかし、唯一すべての記憶を有するほむらだけは、問題の解決から外れている。

過去の記憶に縛られ、苦しいはずのほむら。

彼女は、「愛」という表現でその状態を許容しているが、それは非常に歪で不安定であるといえる。

 

というのは、「愛」というのは、相手を必要とする概念だからだ。

ほむらの場合、対象であるまどかが、実は不在である。

なぜなら、まどかはほむらのすべてを知らないからである。

※また、まどかは自身が「円環の理」であることを知らないために、自身の性質である「正義」をほむらとぶつけ合うこともできない。

 

ほむらの愛は一方的なもので、他方のまどかの反応は鈍い。

それがほむらを苦しめる。

 

世界は、やがて彼女の精神とパラレルにすり減っていくことだろう。

ほむらの創り出した新たな世界には、実は最初から緩慢な死が約束されているのである。

 

 

では、映画ではこの閉塞状態からの消耗を描くのだろうか。

いや、私はそうは思わない。

むしろ、この閉塞状態をほむらにとって思ってもみなかった形で解決する方向にもっていくだろう。

 

例えば、「ワルプルギス」が「廻天」するとあるが、これは字義通りにとらえれば、ワルプルギスが力を取り戻す、という意味になる。

 

ワルプルギスといえば、おそらくワルプルギスの夜を意味するだろうけれども、ワルプルギスの夜はほむらにとって、愛するまどかを何度となく奪った因縁の相手である。

 

これが、「廻天」するとなれば、ほむらの日常は崩壊することは間違いない。

 

おそらく、ほむらの世界に何らかの新しい刺激が加わり、それによってほむらの「愛」の脆弱さが露呈して揺らいだところを、もっと大きな存在(アルティメットまどか?あるいは、もっと大きな存在か?)によって救済されるという話になるのではないか。

 

よく、物事がより高い次元に移行するとき、ヘーゲル的弁証法に従った、アウフヘーベンが用いられるが、この「ワルプルギスの廻天」でも似たような解決法が採られるのではないか。

 

非常に抽象的になったが、大筋のというか、通奏低音の予想をしてみた。

超主観的キャラ紹介

暁美ほむら(ほむほむ) CV 斎藤千和さま

 ひょっとしたら、クーほむ、メガほむ、デビほむ単体でランキングトップを独占できるのではないか。

 どのサイトを見てもほむほむは別格である。

 「だから私は、Xperia」(違

 とはいえ、アニメを最初に見た時にはどうしてもまどか目線になるため、10話や新編をとりあえず観終わるまでは、どこか「?」なところもあった。

 しかし、現在ではその雰囲気(要するにコミュ障?)や考え方などなど、彼女ほど「主役」にふさわしい人はいないのではないか、と思うようになっている。

 

 ちなみに筆者が二次創作まで追いかけたのは、すべてほむらつながりといってもよい。

 早く「まどマギをゲーム化してみた」が完成しないかなぁ・・

 

名言:「いたら、私が許さない」「根競べなら、負けない」

─これこそ人間の感情の極み 希望より熱く 絶望より深いもの… 愛よ!─

 

↓ 待ち受け画像

 追記:ほむらの魔法少女としての能力について

彼女の使う「時間停止」の魔法は、それだけでチート級の性能だけれども、例えばマミさんのティロ・フィナーレに相当する必殺技は持っていない。つまり、魔法としての攻撃力はないのだ。

また、関連書籍などを読んでいくと彼女の時間停止の魔法はワルプルギスの夜が来た時以降は、使うことができず、事実上その後は魔力なしで魔女と闘わなければならないことになっているという。

 

このように、彼女が魔法少女の能力に(他の魔法少女と比較しても明らかな)限界があるのはなぜだろうか。

もちろん、能力が万能になることを防ぐ、というメタ的な理由もあるだろう。

しかしながら、彼女の「願い」と関連付けて考えるとどうだろうか。

 

「鹿目さんとの出会いをやり直したい」という願いは、「条理」をねじまげるものだ。

条理をゆがめる魔法少女の祈りは、かならずどこかで矛盾(最悪)を生じる。というのが、インキュベーターの説明である。

 

具体的には、彼女が最初に出会ったまどかは、ワルプルギスの夜によって絶命している。

出会いをやり直すためには、すべてを「なかったこと」にするしかないのである。

しかし、そうするとまどかと共有してきた思い出もすべて無になることになる。

それがいかに耐え難いことかは、劇中でも吐露されている。

 

当初の願いが、その魔法少女の運命にとってマイナスに働くのだとすれば、「時間停止」や「時間遡行」の魔法に多くの制約や代償があることも納得がいく。すなわち、これらの魔法をいくら使ってもワルプルギスの夜を克服できないように運命づけられているのである。まどかとの出会いをやり直すことはできても、まどかとはどんどん「ずれ」が生じていき、しかもまどかが最終的には失われるという形に運命が組み替えられただけなのだ。

 

この運命を「残酷」だということは、できる。

が、だからこそ本編のラストや新編の「愛」に共感できるのもまた事実である。

 

佐倉杏子 CV 野中藍さま

ほむほむのよき話し相手(叛逆)。

 最初は悪役っぽく登場することも相まって、お話が進むとどんどん好感度がアップ。

 飾らない素朴なところがよい。リアルでいたら男女問わず人気がありそう。

名言:「一人ぼっちは、寂しいもんな」

追記:「叛逆の物語」においてほむらが杏子を選んだ理由

いわゆる偽町のなぞ解きにほむらが誘ったのは杏子だった。

BDのオーディオコメンタリーを視聴すると、「消去法」で選ばれた、とあるけれどもまさにその通りである。

 

ただ、「消去法」だとしても、ほむらは杏子に対して一定以上の信頼を寄せていたこともまだ事実である。

その背景を探ると、佐倉杏子という人となりが見えてくるのではないか。

 

(1)戦力として

本編ではほむらは杏子について「戦力」として有用だから、ワルプルギスの夜を倒すために協力しているのである、という趣旨の発言があった。

このことは、事実である。

魔法少女としての才能と経験を併せ持つ杏子は、ほむらにとって「最高のパートナー」だったに違いない。

 

但し、同じ「ベテラン」のマミが考慮に入っていないことは、ほむらはパートナーの「合う合わない」が激しいということでもある。

 

(2)魔法少女として

魔法少女は一度願いをかなえたら、その後は条理にあらがって戦い続けなければならない。

そのために「覚悟」をもつことは、容易ではない。

 

ほむらは「まどかを救うため」に戦い続けているが、杏子の場合には「自分のため」と割り切っている。

このあたりのさばさばした感じが、ほむらにとって付き合いやすさの原因となっているのではなかろうか。 

 

また、杏子は他人に対して必要以上に踏み込んでこない。

ただ、それは杏子が非情であることを意味しない。

 

この「自分中心」でありながらも、だからこそ相手に対して「寛容」になれるという姿勢が、ほむらにとってポイントが高かったのではないかと考えている。 

鹿目まどか CV 悠木碧さま

いわゆるゴッド(ゴッデス)だが、人気は三番手であることが多い。

※あくまで、アニメ放送時。今は「神と悪魔」のペアの人気は絶対的である。

 

 個人的には、まどほむのほうが好き。

名言:「ひどいよ・・ こんなのあんまりだよ」→着メロ(候補)「ウェヒヒ」「・・と思ってしまうのでした」「私の最高の友達」

 

― 希望を抱くのが間違いだなんて言われたら

 私 そんなのは違うって 何度でもそう言い返せます

 きっといつまでも言い張れます ―

追記:まどかが「魔法少女らしい」理由

ビジュアル面からしても、まどかは非常に「魔法少女」っぽい。

しかし、それが表面的なだけにならないのはまどか自身の性格やバックグランドにあると思う。

 

まどかは、最終話で見られたように相手がだれであっても分け隔てなく接する慈愛の精神を持っている。

この「慈愛」の精神は、魔法少女ものの主人公としてマストアイテムだといえる。

 

そして、まどかは単に「慈愛」だけではなく、いざというときには自分の正義を貫ける「勇気」も持っていることを見逃してはならない。

まどかは最終的に、魔法少女たちの希望を守るために宇宙の法則を書き換えたけれども、これはまどかが「魔法少女としての運命」に納得してしまっていたら到底なしえないことだった。

まどかは「絶望」という状況でも、「希望」と断言できるヒーローとしての側面も備えているのだ。 

 

 

では、まどかが「魔法少女としての主人公」らしくなっているバックグランドはどこにあるか。

それは、いうまでもなくまどかの家族である。

まどかの家族、特に母親の鹿目詢子はまどかにとって最良の相談相手であり、目指すべき理想像だといえる。

まどかの母親、父親、そして弟といった「家族」は、まどかにしっかりとした「芯」を持たせ、最終話での決断を支えるキーポイントとなったのである。

追記:まどかとほむらの違い

ほむらの行動原理が「愛」であるならば、まどかの行動原理は「正義」である。

この2つは似ている点もあるが、決定的に異なっている点もある。

 

ほむらにとって、複雑なのはまどかが「すべての魔法少女」を見ている点にあるだろう。

つまり、誰に対しても分け隔てなく接するまどかの心の広さが、ほむらの抱く「まどかへの愛着」を刺激するのである。

しかし、当のまどかはほむらのそのような気持ちを知らないし、おそらくわからないのではないか。

 

叛逆の物語のラストで、ほむらがまどかを問いただしたとき、答えを聞いて「まどか」らしいと安心したのと同時に、自身の「愛の限界」を感じ取ったのだと思う。

 

「正義」と「愛」は、お互い妥協しない場合には衝突が生まれるだろうが、それがどんな方向に展開するのかについては、想像の域を出ない。 

美樹さやか CV 喜多村英梨さま

残念さやかちゃん。

まどかの幼馴染であり、ほむらの本質を真っ先に見抜く。

アニメ中盤を引っ張る存在でもあり、ある意味まどマギの中心人物だが、それに見合う人気が足りない気がする。

 

名言:「奇跡も、魔法も、あるんだよ!」→「後悔なんて、あるわけない」→「こんなの絶対おかしいよ」→「痛みなんて消しちゃえるんだー」→「あたしって、ほんとバカ」

 追記:さやかの描く魔法少女のリアル

ストーリー中盤において、さやかはメインキャラクターというくらいスポットライトが当たる。

しかし、その描かれ方は精々しいというよりは、寧ろ生々しいといっていいほどである。

 

例えば、さやかには魔法少女としての因果が乏しいため、能力が低い。

そのことに起因して、先輩であるマミ(故)やライバルである杏子やほむら、そして何より親友であったはずのまどかに劣等感を抱くことになる。

また、自分の祈りのためにボーイフレンドの恭介が快復し、最終的に仁美に告白されるのを、横から見る格好になる。

そしてなにより、最後には魔女になって死亡する。

 

もちろん、さやか本人の責任と言ってよい部分もある。

例えば、魔法少女が人間とは異なる存在であったとしても、恋愛は可能だからだ。

 

だけれども、さやかが背負わされた「現実」というものはあまりにも重い。

それを彼女自身の人間性にすべて帰納することは、酷ではないかと思う。

 

むしろ、私としては一歩下がって「条理」というもののもつ冷酷さと、あるいはその条理に打ちのめされる人を見て、同情するよりも非難したくなるという自分自身を鑑賞するべきではないか。

 

実際さやかは、アニメの主要人物の中でも熱心なファンは少ないようである。

※あくまで、アニメ放送当初の話である。

それは、我々は「さやかを直視したくない」からではないか。

さやかは、人間と魔法少女の負の側面を一身に背負わされている「三枚目」ともいえる。

 

 彼女は最終的にまどかによって救済されるが、最も救済されるべきなのはほむらだけではなく、さやかだったのではないかと思っている。 

巴マミ CV 水橋かおりさま

ほむほむの天敵(いろんな意味で)。

 「マミる」「3話」などのスラングを生み出した。

しかし、さすがにマギアレコードではネタに走りすぎた気が・・

 

名言:「後悔なんてあるわけない」

追記:「亡霊」としてのマミ

 

マミの存在感は、むしろ序盤の「ガイド役」を終えた(マミった)後にこそ現れる。

特にさやかはマミに憧れており、その憧れがプレッシャーとなって最終的に彼女を追い詰めていく。

また、まどかとさやかとでマミの死亡に対する解釈が異なる点ものちの展開に影響を与えている。

まどかはほむらがマミに拘束されていたことを知っていた。

 

このような、マミの存在感をありありとリアルに描くところが、まどマギの魅力でもある。 

追記:因縁の二人

 

周りに溶け込むのが本来苦手でマイペースなほむらと、ムード・メイカーで周囲を同調させるのを好むマミとの相性が(一見)最悪なのは必然である。

 

但し、2人の性格は実は似通っているのではないかとも思っている。

いずれも人一倍寂しがり屋だからだ。

条件がそろえば、本編10話や叛逆の物語の冒頭のように、かえって2人のコンビネーションが冴えることもある。

 

結局、叛逆の物語のラストで2人は決別したように見えるけれども、このような形に到達することは1つの起こりうる可能性ではあった。

考察の前にお気に入りの曲

OP・EDテーマ曲

・コネクト(ClariS)

歌詞の内容が、良い意味でミスリーディングで有名な曲。

最初聞けば、アニメーションと相まってまどかの歌だと思うだろうが、実はほむらの歌であるという逆転がある。

・Magia(Kalafina)

3話以降のEDテーマ。まどマギの本性が現れた歌といえるが、劇場版全編のEDはさらにダークな色彩が強まっており、必聴である。

・ルミナス(ClariS)

一部界隈では「ルミナス」といえば、まどかとほむらが頬っぺたをすりすりしあうことを意味する(実話)

・カラフル(ClariS)

ClariSの曲の中では個人的に一番のお気に入り。どの曲もさわやかで疾走感があるが、カラフルはコネクトの2年後にリリースされたからなのか、歌い方がいっそう成熟している気がする。

・君の銀の庭(Kalafina)

まどマギの場合は特にそうだけれども、歌詞とメロディ(または、映像や本編のストーリー)が両方合わさって初めて1つの世界が完成している。

 

この叛逆の物語のラストに流れる「君の銀の庭」は、聴いていて「先を急ぐ」ような印象を受けた。

特に中盤を過ぎると、歌詞をメロディやボーカルが追いかけているように感じられるのだ。

 

あえてほむらに重ねて「君の銀の庭」を観賞するのならば、平穏な日常よりもあくまで「瞬間」を生き、次の未来を追いかけていく姿が感じられた。

ただし、その姿は手放しで幸せに包まれているということもまた、できない。

一歩を踏み出すたびに、また影のように、「求めているもの」が先に行ってしまうからである。

 

あくまで「追い求め続けるしかない」のだけれども、それこそが一つのほむらのたどり着いたありかたなのかもしれないと思うと、ぐっとほむらが近くに来るような気持になるのである。

その他

・未来(Kalafina)

通称「マミさんのテーマ」(正式名称:Credens justitiam)に歌詞がついたもの。Kalafinaの曲では一番のお気に入りかもしれない。なんといっても終始上がり基調のメロディが、聴く人に心地よい元気を与えてくれる。ちなみに、この曲はKalafinaのアルバム”THE BEST "BLUE""に収録されている。

・Sis Puella Magica!(梶浦由記)

通称「営業のテーマ」であり、きゅうべえの勧誘シーンで使用されている。アニメ終盤になればなるほど、曲のシリアスなテイストが心に響いてくるという、まさに(良い意味で)「アニメ的な」曲である。

 

梶浦由記さんといえば、日本を代表する大音楽家だが、彼女が手掛けた曲はほかに「君の銀の庭」や「Magia」などがあり、上記「未来」も彼女が作詞作曲を行っている。また、別作品になるが舞-HiMEの「目覚め」も非常な名曲であり、作者はほぼ毎日聴いている。

お気に入りのシーン

・『始まりの物語』における、「あたしって、ほんとバカ」(さやか)のシーン

『マギアレポート』1巻において、まどか先輩にパクられるほど有名なセリフ。

さやかは、魔法少女としてはかばかしい活躍ができず、徐々に深みにはまっていき、最後は魔女に堕ちてしまうが、その直前にいったのが、このセリフである。

 

単体でもかなりインパクトがあるが、彼女のセリフが「奇跡も、魔法も、あるんだよ(魔法少女になる直前)」と「後悔なんて、あるわけない(魔法少女になってすぐ)」で始まり、「こんなの絶対おかしいよ」で変調をきたし、最後にこの「あたしって、ほんとバカ」に帰着する展開を踏まえると、さらに印象的だ。

 

実際、さやかはこのセリフの後魔女化し、次に彼女が登場するのは最終話でまどかが彼女を「連れていく」シーンとなっていることからしても、「あたしって、ほんとバカ」というこの一言のためにさやかのストーリーが説明されているといっても過言ではない。

 

・『叛逆の物語』における、ほむら対マミのシーン

魔法少女同士の「決闘」としては、これ以上のものを見たことがない。

「劇場版」ということで、作画もアニメとは一味違う。

 

私はほむらの動きにばかり目が行っていたが、マミも銃を持ち変えるごとに姿勢を変えており、このシーンが中盤の山場であることを裏付けている。

 

また、バトル中はほぼ薬莢の音だけで、最後のシーンになってようやく落ち着くと、こちらもようやく我に返るのである。

考察の直前にまどマギのノベルゲーム(二次創作)

作者様のホームページ:「魔法少女まどか☆マギカ ゲーム製作所」

URL: http://masuda2631.xsrv.jp/

物語中では、ほむらからまどかに対するアプローチが目立ったが、こちらでは立場を逆転させることでまどかの積極的なほむらにたいする気持ちが表現されている。

特に、まどかのけなげさには感涙せざるを得ない。

叛逆の物語の後の世界において、十分にあり得る物語の展開をきれいにトレースしている。

特にほむらの内面描写が巧みで、それだけでも一見、いや繰り返し視聴する価値がある。

考察:ほむらとまどか

まどマギには名言が多いが、その中でもほむほむの言葉は非常に重い。

ただ、その重さの方向性は初見の時と何度も見返すときとでは、徐々に異なってくる。

 

初見のときには、まだ先を知らないなかで意味深な言葉を伝えてくる、程度のイメージしかもっていなかった。

しかしながら、物語が進んでいくにつれてほむほむの内面が明らかになっていく。

そうすると、彼女の言葉はある意味自分自身に向けられたものでもある、ということを知るのである。

 

ほむらは、確かにまどかのことが大好きだ。

しかし、繰り返せば繰り返すほど2人の距離は広がっていくことは避けられない。

それは、ほむらも自覚していることである。

まるで、自分自身に問いかけるように、そして決してできないけれどまどかがそのことを悟ってくれることを待ちながら、ほむらはまどかに語るのである。

 

もちろん、そうしたほむらの姿勢を「私だったらこうするのに」と批判することはたやすい。

だけれども、あの語りはほむらにしかできないし、ほむらだからこそ許されている、と腑に落ちるようなところがある。

 

ほむらは不器用だけれども、決してそのことでふさぎ込んだりはしない。

確かに達観しているけれども、その根本にあるのはあきらめの悪い純粋さだ。

彼女はある意味では「子供らしい」側面を残している。

※だからこそ魔法「少女」でいられるし、逆にあきらめた瞬間に魔女になってしまうのだろう。

 

ある「言葉に感動する」ときというのは、その言葉の辞書的な意味に心を動かされるわけではない。

むしろその言葉の背景にちらりと見えた感情と、それに対する共感によるものである。

 

繰り返しまどマギを視聴することによって、目線は徐々に第一印象的なまどか的なものから、ほむら的なものにシフトしていく。目線がシフトしていく過程で、いつの間にか自身がほむらになっているのだ。

※そのプロセスの中で「ほむほむ」を自然と感じられるようになっているのは、演出のうまさだ。

私は、ほむらの「大人になり切れない子供らしさ(っぽさ)」にたまらなく共感してしまう。

間違いなく、ほむらの気持ちは彼女だけのものであり、だからこそ唯一無二の主人公として認めざるを得ないのである。

 

一方で、まどかはどうか。

初見の時には確かにまどか目線でストーリーを追っていた。

しかし、何度も繰り返すうちにまどかの感覚になぜか共感しにくくなっていた。

ほむらとまどかで、芯にあるものが異なるからなのかもしれないが、まどかの行動原理である「正義」はどうも繰り返し見ていくうちに、陳腐になってくるのだ。

 

正義はその場1回限りなら非常に輝いて見える。

だが、何度も同じ正義を見ているとなぜか共感できなくなってくる。

 

他方でほむらのまどかに対する「愛」は(常に危機にさらされているからかもしれないが)、その切実さが(二次創作などをみると)今でも伝わってくる。

 

私は恒常的なものよりも、刹那的なものが好きだ。 

ほむらとまどかは、その意味でまどマギを体現する存在であり、ほむらとまどかのガラス細工のような関係性に翻弄されるのが、私なりのまどマギとの付き合い方である。

考察:悪魔ほむら

一口に「悪魔ほむら」といっても、劇場公開版と1st take版とでは大きく印象が異なる。

ただ、いずれにしても共通するのは、ほむほむは(最終的に)魔女にはならなかったということだ。

 

上で少し書いたが「魔女」というのは、一種の大人の姿である(絶望という形ではあるが)。

他方で魔法少女は、夢や希望によって生まれた少女(未完の存在)ともいえる。

 

では「悪魔ほむら」とはなにか。

そのルーツは本人も言っているように「愛」である。

正義や秩序と違って、愛は外部からは検証できない(ある種の自己言及)。

ほむほむは、自己完結的な感情によって比類なき力を得たのである。

 

ただ、いくら愛に自己完結的な要素があるとしても「迷い」がみてとれることがある。

実際、まどかが転校してきて渡り廊下でほむほむが焦ったように、

まどかがちょっとしたことで神の記憶を取り戻してしまうかもしれない。

 

また、それ以前に今の形はまどかの望むものなのか。

あるいは、今のまどかは自分が望んだものなのか。

そういう自問もあるだろう。

※このあたり「迷い」の加減が2つのverの違いともいえる。

 

それにしても、ほむらは不器用だ。

感情がすぐに表情に反映される。

考えてみれば、クーほむのときのクールな表情すらも(事情を知っている側からみれば)ほむらの姿勢がストレートに表れたものだともいえる。

仮に悪魔になり果てたとしても、いやそうなったからこそ「やはり」という部分を残している。

 

ほむらは常に微妙なバランスの中で生きている。

人間らしいリアリティの部分と、反対に理想を追求する部分。

リアルさはあるけれども、どろどろはしていない。

 

やっぱり私は、悪魔ほむらのファンなのである。

 追記:ほむらの特殊性

これまで無数の魔法少女たちが存在してきたのに、なぜほむらだけが「悪魔」になりえたのか。

物語的に考えれば、それは「神」であるまどかの存在と切り離せない。

 

確かに、まどかとほむらは生まれた時には、お互いのことは知らないし、何の関係もない。

あくまで2人が最初に見知ったのは、「転校」という偶然があったからだ。

そして、その偶然を契機としてほむらは魔法少女になり、時間遡行を繰り返しながら、まどかの因果を束ね、やがてまどかを「(魔法少女の)神」にしてしまう。その後、ほむらがいったんは魔女になってしまったけれども、まどかたちの助けによって抜け出して、最終的に「悪魔」になった。

 

このように、まどかとほむらはお互いがお互いに影響しあっている。

そして、影響しあうたびにお互いがどんどん高次の存在にレベルアップしている。

 

もちろん、ほかの魔法少女も(さやかと杏子のように)相互補完的な関係になることはあった。

しかし、まどかとほむらの場合には2人の意思を超えて、2人の意思の働かない部分にまで因果の力が働いているような気がする。

 

2人が最終的に「神」と「悪魔」という極限の存在になることになったのは、もはや「運命」としかいいようのない、2人の因縁によるものであろう。

※ほむらが完全に「悪魔」として覚醒したことで、「神」であるまどかも何らかの存在に昇華しているとすれば、それはいったい何になるのか、もはや想像もつかない。
 

考察:「成熟」という檻

1.「成熟」の逆説

同名の書籍を読んで私は驚いた。

ひとつのアニメの考察がまさか本になるとは・・と。

しかもその内容も、様々なフレームを用いた解析で読んでいて楽しめた。

 

「成熟」というと、多くの文脈ではよい意味で使われる。

というよりも、「成熟」がバッドエンドを意味するまどマギのほうが逆説的である、といえる。

 

すなわち、魔法少女は成熟すると「魔女」になってしまうからだ。

まどかが改変する前の世界では、魔法少女はやがて絶望する。

しかも、さやかの例に顕著なように、自分の祈りが仇となって絶望することもある。

そして、魔法少女が「正常に」変化した姿が「魔女」である。

 

この一連の過程は、一般に言われている「成熟」とか「成長」とかいう言葉の用法についての、強烈なカウンターであると思う。

すなわち「子供の考えよりも、大人の考えのほうが正しい」とか「苦労すると人は成長する」などといったものに真っ向からチャレンジしているからである。

 

だが、考えてみればその「正しさ」の源泉はどこにあるのだろうか。

まどマギの枠内で考えても、魔法少女は願いの対価として、戦い続けれなければならない。

しかも、自分が戦って勝利して、それが結果人を救っても、一般人からは認識してもらうことはできない。

この魔法少女の戦いの生活は「正しい」といえるのだろうか。

そもそも魔法少女は戦うために契約したのではなく、もともとはもっと純粋な気持ちからではないか。

 

また、時間的な観点からみても「魔女」のほうが「魔法少女」よりも後の存在である。

魔法少女という時間は、やがて魔女になるための「プロセス」だともいえるのである。

すなわち「希望」を抱くのは、やがて絶望するためであるということすらできる。

 

2.ヒーローの「未熟さ」

翻って、まどマギに共感している私自身について考えてみると、確かに「成熟=よいもの」のように考えている部分は否定できない。

つまり、「現実をありのままに受け入れること」、もっとありていに言えば「ゴロンと横になって、黒を黒だといい、白と白だといって、満足していること」に気づいたのである。

 

だが、これこそが「現実主義の陥穽(落とし穴)」なのだ。

 

絶望的な状況の時に「絶望」というのはたやすい。

一方で、同じ時に「希望」というためには、とてつもない「勇気」がいる。

また、絶望に沈んでいる人を非難することはたやすいけれども、彼(彼女)に対して慈愛の心を持つことは、容易なことではない。

 

現実を直視することは重要だけれども、そのうえで未知の領域に一歩を踏み出す「未熟さ」を笑ってはならないのだ、と思った。

 

3.まどかはヒロインではなくヒーローになった

まどマギに話を戻そう。

本編のラストでまどかがとうとう自分の祈りをかなえる。

その祈りは、自分のためではなくすべての魔法少女のためであった。

 

それは言い換えれば「魔法少女を魔法少女のままでいられるようにする」という祈りだったと思っている。

祈りは決して無駄ではなく、それに絶望する必要はない、とまどかは言った。

まどかは魔法少女の希望を守る存在に昇華したのである。

 

4.悪魔ほむらという対概念

ほむらのたどり着いた「悪魔」という姿は、言うまでもなく神の対概念である。

 

だが、「成熟という檻」を克服したという意味では、まどかと共通する点も見られる。

ほむらの場合には、「成熟」を拒否して、未成熟のままで完成することのほうを選択した。

インキュベーターの例を借りれば、卵の殻の中で成長することにしたのだ。

 

具体的には、あくまでまどかと楽しい思い出をたくさん作っていくことは、あくまで青春の一コマであり、やがて成長して大人になれば、結婚して家庭を持ったり、あるいは仕事に精を出すなどといった方向に向かっていくだろう。

 

だが、ほむらはその未来の可能性を断ち切った。

今の瞬間における「まどかへの愛」のために、ずっと生き続けるという「閉じた世界」を構築した。

そこには、「痛みすら愛おしい」というほむらの言葉にあるように、「黒を白という」ような、強い気概が感じられるのである。

 

5.「答えがない」のは悪いことではない

お互い異なる形態で「成熟という檻」を克服したまどかとほむらだけれども、この2人が「共存」している状態を好意的に解釈できないだろうか。

 

まどかの「正義」とほむらの「愛」が完全にお互いを打ち消しあったりするよりも、2つが緊張感をもっている「冷戦状態(あくまで概念としてである)」こそが、ある種の「未成熟」な状態だと考えられる。

 

私はまどかとほむらが、このあと「結論」を出すことをある意味では望んでいるけれども、ここでもしも、まどマギが完結(?)するとしても、そのことは本作品の評価を落とすどころか、むしろ実証するものであると確信している。

 

※追記:

『ワルプルギスの廻天』という名称で続編が決定された。

前作の新編では、余韻の残る終わり方だったことから豊かな考察や二次創作が生み出されたことから、この新作でも同様の展開を期待したい。

 

※追記:

仏教では、対立する2つ(複数)の状態について、どちらかが勝利して他を排他することよりも、両方の状態が緊張感をもって均衡している状態に価値を認めているという。この点についてはもっと勉強しなければと思っている。ただ、もしこのような考え方が仏教にあるのならば、まどマギ人気が一過性のものではなく、普遍的(少なくとも長期的)である理由の一端は、この「神」と「悪魔」の描き方にもあるといえる。

考察:叛逆の物語における「記憶」

とりわけ叛逆の物語を視聴していて感じたのは、「記憶」の力だ。

 

例えば、偽町はほむらの記憶の産物であるし、またそこに招き入れられた魔法少女らは、記憶を書き換えられている。また、ほむらによって書き換えられた世界でも、ほむらはいとも簡単にさやかの記憶を薄れさせている。

しかも、考えてみればほむら自身も「記憶」に言及している箇所がある。

 

――記憶って厄介なものね。ひとつ取り戻すと、次から次へと余計な思い出がついてくる。

(叛逆の物語、中盤より)

 

ほむらは、本編12話のまどかによる「円環の理」が誕生してから、唯一まどかを記憶している存在となった。

彼女が自分の背負った記憶に対して、どれだけ複雑な感情を抱いたかは本人が吐露しているところである。

 

ただ、それに付け加えたいのはほむらのみが有する「まどか=神」の記憶が、彼女に特別な力を与えたのではないか、ということである。

実際、12話の最後ではほむらは戦うときに、盾や銃ではなく、黒い弓矢を用いている。

 

このことは、彼女の有していた時間に関する魔法が、変化(進化)したことを意味しているのではないか。

まどマギの世界は祈りや絶望が具現化する世界だから、「まどか=神」の記憶が具現化したとしても、不自然ではないと思われる。

12話の最後における武器の変化は、その片鱗だと言える。

 

もちろん、そうした絶大な力はタダではない。

条理に反する奇跡は、何らかのゆがみを生み出してしまうことがまどマギの世界の特徴である。

ほむらの場合には、自分だけがまどかを記憶しているということが、やがてインキュベーターの悪意を呼び覚ましたり、彼らの実験によってまどかの祈りが蹂躙されそうになったりした。

 

だが、ほむらは仲間の力を借りてインキュベーターの実験を打ち破り、神の記憶を取り戻したまどかと接触することになる。

 

このとき、ほむらは自分のいた「こちら側の世界(此岸)」と、まどかのいる「あちら側の世界(彼岸)」とが結びついたことを感じ取った。

もちろん、それは(まどかによって救済されるから)本来一時的なものになるはずだったのだけれども、ほむらは自分がまどかの側に行くのではなくて、まどかを自分の側に引き戻した。

 

こうした一連の「条理を超越した行為」は、ほむらのまどかへの「愛」に加えて、ほむらだけが有する「まどかのいる世界=彼岸」への記憶の力が具現化したものだと思っている。

 

そして、此岸と彼岸が結びつけられたその瞬間超大なエネルギーが発生して、世界が再び改変された。

更に、ほむらは改変前後の全ての世界の記憶を束ねる唯一の存在「悪魔」として、更なるパワーアップを果たすのである。 

 

このように「記憶」は、叛逆の物語における通奏低音なのだ。

追記:ほむらの弱さと強さ

まどマギの魔法少女は考えてみれば「自分の願い」という「過去の記憶」に拘束される。

その意味では、魔法少女は過去を生きる存在ともいえ、ほむらの場合には「時間」をつかさどる魔法ということで、典型的に表れたといえる。

 

その理由を考えるのは難しいが、この前視聴した二次創作の"Saturn"がかなり参考になる。

ほむらは、まどかに拒絶されるのが怖かったのだ。

つまり、ほむらは「自分のためのまどか」をどこまでも求めていたのだ。

そして、そうするがゆえに理想のまどかを求めて時間をさかのぼったり、記憶を操作したりすることにつながったのだ。

 

それが悪いということは一概には言えない。

これは、一般論で片付けるべき問題ではなくほむら自身の実存の問題だからだ。

ただ、ほむらの祈りは彼女自身を傷つけ、一度は最悪の状態にまで沈んでしまった。

 

しかし、ほむらがそのうちに秘めたまどかへの愛情に気づいたとき、叛逆の物語の終盤は大きく動いた。

ある意味では、ほむらがまどかに対して一線を超える行動をした瞬間、彼女は過去の記憶を克服したのかもしれない。

 

もちろん、彼女が生きている限り、自身とまどかの祈りの生み出した因果に振り回されることはあるだろう。

が、ほむらとまどかの場合には、どこまで行ってもちゃんと決めるところは決める気がする。

 

叛逆のエピローグにおける廊下での会話は、「主人公」としての資質を備えた2者だからこそ、できる技なのだ。 

考察:まどマギ論における「自然」と「作為」

1 まえおき

 アニメ本編ラストに登場する最悪の魔女、通称「ワルプルギスの夜」は、まさに人為では抗いがたい自然災害の形を借りて現れる。

 ただ、ワルプルギスの夜ほど顕著ではないにしても、まどマギの世界においてはすでにいくつもの「自然」が存在してきたことを見落としてはならない。

 例えば、魔法少女の在り方そのものが、一つの「自然条件」となっている。魔法少女はどうあがいたとしても、元の生身の人間には戻れず、戦いを続けるか、死亡するか、魔女になるかしかない。この「法則」はまどかによって改変される以前は、だれもが認知し、従わなくてはならない「自然法則」であった。

 そして、人間社会にも、もはや「自然法則」と呼んでもよい、抗えない現実というものがいくつも存在する。例えば、人間は出自を選べないし、周囲の環境によってさまざまな影響を受ける。

 一方で、何もかもが「自然」で人間や魔法少女たちは単にピンボールのように翻弄されるだけなのかというと、そうともいえない。そこには「自然」に抗おうとする「作為」の存在を見ることができる。人類の意志の力は、少なからず自然法則の進行に対して干渉することができ、こうした考えを「作為」論と呼ぶことにしよう。

 「自然」と「作為」というのは、一方が他方に打ち勝とうとはするけれども、しかし最終的な結論はいまだ出ていないようであるし、また出るべきでもないと思っている。むしろ、「自然」と「作為」の中間的な存在として、魔法少女の存在を考えてみると、魔法少女はまさに「途上(未完)」の存在であって、またそうであるからこそ、彼女たちは夢や希望を体現することができるのだ。

 

2 まどかとほむらが抗った「自然」

 まどまぎは、5人の魔法少女たちを中心として「自然」と「作為」との緊張関係を実証した。

 具体的には、マミはお菓子の魔女というアクシデントによって死亡し、その後継と自負していたさやかは魔法少女としての現実に耐えられずに自壊し、魔女になった。そして杏子は、魔法少女が魔女化する現実に抗う奇跡を求めた瞬間に、殉死した。このように、まどかとほむらを除く3人は、魔法少女の厳しい現実にやられてしまったという見方ができる。

 一方で、ほむらとまどかは例外的な位置づけである。それぞれ、全く異なる形で「魔法少女の可能性」を守り抜いたからである。

 まず、まどかは魔法少女を取り巻く「法則」それ自体を改変した。まどかは、魔法少女の世界の新たな法則となり、その存在は「神」のようなものとして描かれる。

 しかし、まどかが自然を超越することができたことには、ほむらの存在が欠かせない。彼女が複数の時間軸を束ねたことで、まどかの因果が高まっていったからである。

 そもそも、ほむらが時間遡行を繰り返す一番の要因は、ワルプルギスの夜である。この最悪の魔女に打ち勝てないために、ワルプルギスの夜を倒し、かつまどかが魔法少女にならない時間軸を探し求めたのだ。だが、ほむら単体の努力では、ついにその時間軸を見つけることができなかった。

 その代わりに、まどか自身の強い意志が、ほむらがこれまで積み上げた因果と結びついて、これまでと全く異なる世界が成立したのである。

 ほむらから見れば、この新しい世界の成立は「まどかの犠牲」によって成立したということになる。結局、ほむらが「ワルプルギスの夜」という自然を克服できたのか、結局できなかったのかということはあいまいになってしまった。

 ただ、確かなことはほむらの「作為」が、魔法少女全体に対する「自然」に対して少しずつ、(方向転換する)エネルギーを蓄積させていったことである。それが、ほむら自身が望んでいたことではないにしても、最終的に大きな違いを生み出した。

 

3 美樹さやか論と「自然」と「作為」

 美樹さやかは、物語の中盤において中心的な役割を果たすが、彼女自身については他の魔法少女と比べて、批判的な評価が多い気がする。

 それもそのはずである。美樹さやかは、魔法少女となったが最後、後は転がり落ちるだけで、場合によっては自分自身の言動によって事態を悪化させている。

 さやかを批判することはとてもたやすい。それは、さやかがまどマギの物語の中で最も「作為」的な存在だったこととも関連している。例えば、さやかは魔法少女になった動機がおそらく5人の中で最も弱い。つまり、魔法少女になることも、ならないことも、どちらも選択できたのだ。にもかかわらず、彼女は魔法少女になるということで押し切った。また、ボーイフレンドをめぐる志筑仁美との関係も、おそらく彼女がもう少し「大人」であったら、違う対応ができたであろう。

 しかし、彼女の行動すべてが「自己責任の結果」と本当に言えるのであろうか。魔法少女がどのような存在であるのか、ということについてはさやか自身の力では変えることができない。また、さやかの恋愛事情についても、志筑仁美の存在については干渉できない。さらに、さやか自身はまだ中学生なのだ。まだまだ人生経験が不十分な少女に対して、大人の対応を要求すること自体がナンセンスだといえる。ある意味、美樹さやかの周囲にも本人の意思とは関係ない「自然条件」がたくさんあるのだ。

 では、美樹さやかは「自然」に翻弄された無力な存在として論じるべきか。あるいは、「作為」の可能性は十分にあったけれども自己責任で陥落していった存在としてみるべきか。この答えは、おそらく美樹さやか自身の中にはない。代わりに、彼女を論じる人々の中にあるのだと思う。

 つまり、美樹さやかをどのようにみているのか、ということは彼女自身の描写である以上に、論者自身の「自己紹介」なのだ。あるいは、そういう「自然」と「作為」のバランシングをする社会の素描でもある。

 

※ちょうどまどマギが放送された2011年というのは、日本にとって大きな転機となる自然災害があった。これをうけて、日本国内の考え方は少なからず影響を受けたが、まどマギ論にも反映されているのではないか、というのが筆者の仮説である。

参考にしたもの 兼 おすすめ

Blu-rayアニメ版

・魔法少女まどかマギカ Blu-ray Disc BOX(完全生産限定版)

※実は、諸事情で4回買って4回売ってしまった。そして5回目に再び購入した。

※まだ現物を見たことがないのだが、これとサントラをまとめて収納できる非売品の限定ボックスがあるらしい。ヤフオクやメルカリで稀に目にするので要チェックである。→駿河屋で購入した。

 

Blu-ray劇場版

・劇場版 魔法少女まどかマギカ [前編] 始まりの物語/[後編] 永遠の物語【完全生産限定版】

・劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語(完全生産限定版)

※こちらも実は、同じくらいの回数買って、同じくらいの回数売ってしまった。こちらはもう買い直した。

※実は、アニプレックス限定の収納BOXがある。ヤフオクやメルカリに出ていることがあるので要チェックである。

※2021年4月21日に10周年記念ボックスとして前後編・新編のBDBOXが発売された。→4つ購入。

 

CD

・「魔法少女まどかマギカ」 Ultimate Best(期間生産限定盤)

※注意点は「misterioso」が収録されていないなど、の点だがこれらはAmazonなどで単体で購入できる。

・魔法少女まどかマギカ MUSIC COLLECTION

 

(書籍)公式ガイドブック

・魔法少女ほむらマギカ×ぴあ (ぴあMOOK)

※ほむら語録(全)のほか、CV 斎藤千和さまのインタビュー(ネタバレ前提)や各種考察などが充実している。

※上記のほむらの待ち受け画像は、この書籍のイラストをもとに手描きした。 

 

・魔法少女まどかマギカ公式ガイドブック you are not alone. (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

・劇場版 魔法少女まどかマギカ [前編]始まりの物語/[後編]永遠の物語 公式ガイドブック with you. (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

・劇場版 魔法少女まどかマギカ [新編]叛逆の物語 公式ガイドブック only you. (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

 

(書籍)─二次創作

・ネダオレ氏の作品全般(R18含む):例)『過酷少女絵録』シリーズ、『四畳半ウロボロスふたり』『ほんの一世紀だけ わたしの銀の庭』など多数

※二次創作には様々な方向性があるが、氏の作品はまどマギの深い洞察に基づいており、かつそれを小難しく見せるのではなく、時にはギャグを時にはシリアスを盛り込みながら、絶妙にまどマギの二次創作世界を作り出している。例えば、『過酷少女絵録・惨』ではさやかのセリフで「まどかは誰にでも優しい」というところや、『ほんの一世紀だけ わたしの銀の庭』において、アルティメットまどかが「なぜ私を裂いたのか、円環の私はどうでもいいのか」と尋ねるシーンなど、挙げていけばきりがないほど名言や名場面が多い。それは、決して偶然の産物ではなく、まどマギ二次創作の水準の高さによる必然なのである。

※ちなみに、単純な絵のきれいさ、見易さという点でもよい作品なので、ぜひご覧になってみては(18歳以上は)。

 

(書籍)その他

・成熟という檻 『魔法少女まどかマギカ』論

・魔法少女まどかマギカ講義録メディア文藝への招待― (新典社新書 71)

・ユリイカ201111月臨時増刊号 総特集=魔法少女まどかマギカ 魔法少女に花束を

あとがきなど

最初はコンパクトにまとめるはずだったものが、いつの間にか「壮大なプロジェクト」に発展することは私にとって珍しいことではない。以前は、地獄少女やあさきゆめみし(源氏物語)について考察したこともある。

 

ただ、まどマギに対しては正直迷っていたこともまた事実である。

なぜならば「まどマギ 考察」などで検索していただければわかる通り、まどマギについては多くの有志諸兄によってすでに考察が様々な角度から行われており、私が新たに何かを書き記す意味はどれほどなのかと思っていたからである。

 

しかし、現在進行形で「マギアレコード」をやっていることもあり、私専用の「まどマギ考察」をこしらえてやろうという気持ちは日に日に強まっていった。

したがって、暇を見つけては加筆修正していくことにしたのである。

 

執筆にあたっては、次の2点に留意した。

・あくまで「魔法少女まどかマギカ」の考察であり、そこから脱線しすぎないこと

・私の主観はもちろん含めるけれども、実際にまどマギの物語上であった「事実」と私の「意見」を混同しないようにすること

 

ありていに言えば、「普通のまどマギ考察」をストイックに追求することにした。

 

私の人生において大きなインパクトを与えた「魔法少女まどかマギカ」について、「青春の1ページ」みたいなものをネット上に記録することを目指した。